読書

須賀敦子的な何か、という「軸」

須賀 敦子(1929-1998)

 

須賀敦子さんについては、本当はブログを書きはじめたらまっさきに書きたい内容だったのに、自分にとって重要な話すぎて、どこかでじっくり時間をとって書こうと思っていたら、なんと2年過ぎた。

「時間ができたら」

っていうことは一生できないという好例ですね。

不完全でもとりあえず書こうと思った次第です。

CONTENTS

須賀敦子(1929-1998)のあしあと

知っている方は読み飛ばしてくださって構わないのですが、ざっくり紹介すると、須賀敦子さん(以下敬称略)は、エッセイストであり、翻訳家であり、文学者でもある方。

29歳でイタリアに渡り、以降日⇔伊の文学を双方に紹介する一方で、61歳からエッセイストとして大輪の花を咲かせたひとだ。

彼女を一躍世に送り出したのは、この「ミラノ 霧の風景」。

 

これだけ並べると、「あ~なんだかオシャレで知的で素敵なマダムなのね」という感じがしてしまいそうだけれど、須賀敦子の人生を丹念に追っていくと、とても興味深い。

まず出自は兵庫県の裕福な実業家であり、小学校から小林聖心女学院に通うのだから、良いところのお嬢さまであることは違いない。

しかも、父親は当時にしては珍しい長期の海外視察で見聞を広めたひとであり、かなり自由人であったみたいだ。

外に女性をつくって帰って来ず、思春期の敦子が「帰ってきてください」と迎えに行ったというエピソードも残っている。

この父の知的かつ自由なDNAを受け継いでいるのか、敦子自身も、聖心女子大学を卒業(余談だけど同期に緒方貞子氏がいる)したのち、慶応義塾の大学院に進む。

当時の須賀敦子の言葉でこんなものが残されている。

結婚しないで学問を続けていくためには、修道院に入るしかないのかしら

女性が学問を続けたい、というだけでここまで考えなくてはならないとは、逆に今の時代はほんとうに良い時代になったと思う。

パリへ行く奨学金を得たため慶応の大学院は中退して渡仏する。けれども、パリというかフランスの個人主義的過ぎる感覚が合わなかったようだ。
パリを脱け出して度々イタリアに息抜きしにいくにつれ、しだいにイタリアに傾倒していく。

いったんパリから帰国して日本で働きはじめるも、そこも居場所ではなかった。
今度はローマから来た奨学金を得て、いよいよ渡伊する。

ローマでは、当時のイタリアでもっとも進歩的な知識人の集まるミラノの「コルシア書店」を知る。創立者のダヴィデは、詩人であり神父であった。

宗教と文学、知識が自然に融合する文化。
そしてそれを愛するひとびとが、交われる場所があること。

ここにイタリアというか、欧州の圧倒的な深さのようなものを感じる。

 

コルシア書店の仲間ともに交流するようになった須賀敦子は、そこで夫となるジュゼッペ・リッカ(愛称ペッピーノ)と出会う。

ペッピーノとの最初の出会いは、コルシア書店の会報誌に掲載された彼の「文章」からだった、という逸話が、いかにも才能に惹かれあったこの夫婦らしいなと思う。

どことなく心に残る文章、最後の「P」の署名。
ずっと気になっていた「P」の実物と実際に会って、須賀敦子が「P」と結婚するまでに時間はかからなかった。

イタリアでの生活は、決して裕福なものではなかったようだ。
そもそもペッピーノは、「鉄道員」の息子で、つまり労働者階級に属する。
国は違うけれど、豊かな実業家の娘であった須賀敦子と比較したら、「格差婚」のようにも感じるほどだ。

でもふたりのあいだには、文章がある。本がある。
協力して、文学の翻訳や紹介に努めた。

須賀敦子のイタリア語は「イタリア人よりうまい」と評されたそうだ。
谷崎潤一郎をはじめとした日本文学のイタリア語翻訳につとめるほか、イタリア語の古典的名作を、日本語に翻訳することもしている。

 

なのに、ペッピーノはたった6年の結婚生活ののち、病気を患って「あっさりと」と言っていいほどあっという間に亡くなってしまう。(ペッピーノはもともと丈夫な体質ではなく、きょうだいも早くに失くしている)

ペッピーノが亡くなったときのことは、どの作品にもあまり出てこない。
書くことで再現することができなかったんだと思う。
珍しく書き残しているのは、この一文。

死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れ果てた彼は、声もかけないでひとり行ってしまった

(「ヴェネツィアの宿」)

その後、数年して帰国した須賀敦子は、長い間、大学の非常勤講師などをして生活をしている。また、途中では「エマウス運動」という活動に没頭した時期もあった。

エマウス運動とは政治的・宗教的に中立な立場の社会運動で、フランスがそのルーツにある。貧困、失業、ホームレスなど、つまり社会から疎外された人々を助けるために、主に廃品回収と修復、販売などを行う。雇用を作るための手段である。

わたし、クズ屋をしていたこともある

と彼女が自虐的なジョークっぽく語るのはこのときのことだ。

そうしていつしか61歳になり、須賀敦子は上述した「ミラノ 霧の風景」で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞し、いきなり脚光を浴びることになる。

作家の関川夏央は、「須賀敦子はほとんど登場した瞬間から大家であった」と評したというけれど、それはしごく的確な感想だと思う。

大器晩成というのとも、少し違う感じがする。
彼女の中でずっと醸成されたものに、世間が気づくのが遅かっただけだ。

須賀敦子との出会い

前置きというか、紹介だけで2000字近くも割いてしまいました。

わたしが須賀敦子を知ったのは雑誌の特集(2004年9月、Grazia)で、7ページにもわたる、なかなかしっかりした内容だった。いまだに手元に残っている。

わたしは当時、「海外」というとてもぼやっとした対象に憧れていて、日本と海外を自由に行き来するような人や生き方にとても興味を持っていた。

そのときこの記事に出会って、「須賀敦子ってどんな暮らししてたんだろう」と思ったのがきっかけで、彼女の著作を読み始めた。

セオリー的には「ミラノ 霧の風景」から入るべきだったのかもしれないけれど、そのときたまたま立ち寄った書店にあったのが「トリエステの坂道」だけだったので、とりあえずそれを買って帰ってみた。

 

ところが読みはじめてみて圧倒的に驚いてしまったのは、その「陰」だった。

イタリアという言葉が一般的に日本人に与える「明るさ」「ノリ」「センス」「美味」みたいなものはそこにはほぼなくて、なんならイタリアが舞台である必要があるのかと思うほど、それは心象的な描写、かつそれが情景に投影された部分の多い文章だった。

それから「ミラノ・・・」も読んだし、「地図のない道」「ヴェネツィアの宿」「ユルスナールの靴」等、著作はすべて読み通した。
はじめに抱いた印象は、ずっと変わらなかった。

黒い、みじかめのマントのすそが、これも黒い、光沢のあるブーツにまつわって、小刻みにひるがえる。足がわるいのを隠すというよりはかえってそれを弾みにするような歩き方で、彼女は、人ごみをかきわけては、橋を渡り、やっとひとり通れるほどの細い路地を抜けて行った。

(中略)

こうやって、私たちは歩くの。自分にもいいきかせるような口調で、彼女はなんどかくりかえした。私たちヴェネツィアの人間は、ヴァポレット(蒸気船)には乗らないの。

(「地図のない道」)

ただ、陰といっても「陰鬱」ではなく、「陰影」とでもいうのか、光があるから陰がある、だからこそ映し出せる人生の何か、みたいなものがそこに散りばめられていて、決してこころが暗くなるようなものではなかった。

そして、ところどころに「気づいていなかったじぶんのこころのなにか」を言語化されたような文章がぽろっとでてくる。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。

そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

(「ユルスナールの靴」)

あえて須賀敦子の文章を技術的なことで言うなら、「ひらがな」の使い方と、会話の表現が独特だ。

”ぜんぶ” ”おなじ” ”わるい” ”むかし” ”ちがう” など、漢字にしてもさして難しいと思われない言葉で、よくひらがなが使われているものがある。
かみふくめて言い聞かせるような、そんな印象がある。

それから、「(かぎかっこ)」はあまり使われず、たいていは文章の中に、相手の言葉も須賀敦子の返事も埋め込まれている。

たぶんわたしたちはそれによって、須賀敦子が回想する記憶の中に引き込まれるような感覚にひたることができる。

といっても、須賀敦子の文章をもうこれ以上表現する能力は、わたしには到底ない。
(だから2年も書けなかったのだ)

でもひとつ言うなら、須賀敦子の文章を読むことは、「きれいな水を飲む」のと少し似ている。体感したいなら、ぜひ少し読んでみてほしい。

オススメの作品は特になくて、なぜなら、61歳でデビューし、69歳で亡くなってしまった彼女は、そもそも寡作なのだ。だからすべてがおススメ。

作品に優劣がつけられるほどの数を出す間もなく逝ってしまったことは残念だけど、さっぱりとしたところが須賀敦子らしいのかもしれないとも思う。

須賀敦子的な何か。という軸

わたしは須賀敦子のような文章が書きたいと思っているわけではなく(そこまで無謀ではない)、いまからイタリア暮らしに憧れているわけでもないんだけれども、何か生きる上で迷いが発生したり、行き詰った感を感じたときには、必ずここ【須賀敦子】に戻ってきている。

須賀敦子は、語学と文学のスペシャリストで、死ぬまで仕事をしていて、ペッピーノを想い続けていたけれど、でもなぜか「仕事に生きた」「文学に命を捧げた」「夫に殉じた」みたいな言葉がどれもピンと来ない。どれも正しいんだけれども。

自分を生きた、としか言いようのない、「須賀敦子的な何か」がある。
そしてそれが、わたしを惹きつけつづける。

その、抽象的な「須賀敦子的な何か」が具体的になれば、わたしもそれをまねしたら、もっと遠くへ行けるんじゃないかと頑張って考えてみたこともあった。

わたしはどうしても【須賀敦子的な何か】に近づきたくて、いろんなことをした。

須賀敦子を語る上では、さいころから空気のように親しんだカトリックの信仰ははずせない。
たぶん「何があっても、最後は修道院がある」という、絶対的な居場所というか、最終兵器みたいなものがあったことが、彼女の強さみたいなものにつながったのではないかと思った。

だからカトリックへの入信を真剣に考えた。でも、この動機は不純な気がして他の信者の方に悪いので、結局入信には至らなかった。

それでは、と、須賀敦子がペッピーノと過ごした、ミラノのムジェッロ街にあるアパートメントを訪ねた。
もちろん、その部屋には今は別の人が住んでいる。
アパートの前をうろうろしていたら、怪しまれて管理人に声をかけられたけれども、意図を伝えたら、ロビーと中庭までは見せてくれた。
ちなみに今思えば、昼からかなり酔っていた管理人のほうがよっぽど怪しかった。

それから著作に出てくる場所、ミラノ・ヴェネツィア・リド島・ローマ・ナポリ・フィレンツェなどはほとんど行った。(トリエステは行けていない)
本を片手に、なるべく同じ景色を見ようとした。

最後には、散らばっているいろんな情報をかき集めて、神戸の彼女の墓を探し当ててお参りもした。

もはやストーカー、または墓荒らしと呼んで頂いても構わない。(荒らしてはないけど)

それだけやっても、【須賀敦子的な何か】はやっぱりわからなかった。
でも今は、サムシングはサムシングのままでいいと思っている。

須賀敦子にとっての軸が(たぶん)カトリックであるならば、わたしにとっては、【須賀敦子的な何か】そのものが、軸になっているのだと思う。

何か、がなんなのか、いつかわかるかもしれないけど、わからなくてもいい。

ななみん’s VIEW

自分で言うのもアレなんですが、「軸をもつ」というのは人生においてけっこう大事なことだと思います。
もっというと、人生がラクにもなります。
道を歩くときの、北極星みたいなものでしょう。

人生の軸、それは職人的に「〇〇の道」「〇〇ひとすじ」とかもいいのですが、見つからないと苦しいし、探し続けることになってしまう。

~的な何か、という程度であれば、誰にでも見つけやすく、軌道修正もしやすくていいと思うんです。

ちなみに須賀敦子さんは、「アルザスの曲がりくねった道」という、彼女にとって最初の小説を書き始めていたんですが、未完のまま亡くなりました。

彼女によると、この新作(になるはずだった)小説に比較したら、

それ以前の作品はゴミみたいなもの

だそうです。

そう、わたしがこころのよりどころにしている彼女のエッセイの数々は、彼女からするとゴミなんだそうです(笑)

それはそれで、なんだか痛快です。