読書

「土偶を読む」(竹倉史人著)を読む

先日、我が家にやってきた、この1冊。

土偶。
ふだん(というか人生で)あまり考えたことのないワードです。

わたしに読みこなせるのかな?との不安もあったのですが、結論からいうと、心配無用。
とにかく文章が読みやすく面白いので、「あくまで真面目な本」であることを忘れてしまいそうなくらい、肩の力を抜いて読める本です。

ちょっと背景を明かすと、著者の竹倉史人氏のお兄さんとわたしが中学・高校の同級生というご縁があって、この本を頂いたのです。
とはいえ、以下のレビューは別に配慮は全くなく、一読者として思うところを素直に書かせてもらいました。

CONTENTS

土偶のこと、知ってるつもりだった

まずプロローグ(「はじめに」)の時点でもうすでに驚いてしまったことがあって、それは

  1. 土偶は130年以上も研究されているのに、いまだにほとんど何もわかっていない
  2. 土偶は、邪馬台国と並んで日本考古学史上最大の謎
  3. 世間には相当数の「土偶愛好家」がいて、それぞれ”俺の土偶論”を展開している

という3点。

ななみ
ななみ
土偶ってそんなにカオスなの??

というのが正直なところ。

だって、小学校の教科書に「土偶は、妊娠した女性をかたどったもので、豊穣を祈って作られた云々」みたいなことが、はっきり書いてませんでしたっけ。

わたしの中では土偶は解決済みだったのに。という当惑。

じゃ改めて聞くけど、土偶って何?てなりますよね。

もちろんこれが本書の核なわけですが、驚くことに、著者の竹倉氏は、「はじめに」でいきなり最大のネタをばらします。

土偶は●●の姿をかたどっている

と。

ななみ
ななみ
ええ?

●●があまりに想定外なので、かなり衝撃を受けます。

ネタバレしたから、もうあとは読まなくていいや~とはなりません。
気になりすぎる。

ここから、「土偶というミステリー」への旅が始まるわけです。

土偶と寝る人

さてここで、最大のリスペクトを込めて直球で言うと、著者の竹倉史人氏はかなり変人だと思います。

そもそも略歴を見ても、「武蔵野美術大学を中退→東京大学卒業」というあまり聞いたことのないクロス学歴。美大も東大も縁のないわたしに、そんな脳を理解できるはずもない。

ただ、本書の全編にわたって感じられるのは、どこかずっと「アート」の話をしているかのような空気。そして詩的な旋律。
それはおそらく、こうした著者のバックボーンの影響が大きいのだと思います。

土偶研究のはじまりに際して、竹倉氏は「遮光器土偶」のレプリカを入手します。
そして眺めます。

そして、一緒に寝ます。

ななみ
ななみ
こんなんと!?

いや、これ寝づらいやろ・・・

今から思えば、この時の”遮光器土偶との同衾”は、間違いなく私の土偶研究の幕開けを告げるイニシエーションであった。もともと土偶にさしたる興味を持っていなかった私が、研究対象となる土偶に愛着を抱いた時間であったのだから。

文字通り、土偶とベッドに一緒に入ったのだそうです。
たぶん天才とヤバイ人の間、ぎりぎりだと思う。

こんなことも書いています。

土偶を眺めては、その”わからなさ”に途方に暮れるという日々が数カ月ほど続いたある日、私は自分の仕事場を出てアシスタントの池上と一緒に森と海へ出かける計画を立てた。
部屋の中であれこれ考えていても一向に埒が明かないので、もうこうなったら縄文人になろうと思ったのである。

縄文人になろう のところを書籍内で太字にしているくらいだから、本気らしい。

この話はこう続く。

一万年以上続いた縄文時代が終わり、土偶が消滅してから二〇〇〇年近い歳月が流れた。
(中略)
しかし、当時とほとんど変わらないものがある。
それが森と海である。かれらが採って食べていたものは、現在も変わらずわれわれの森と海に生きている。そこに広がる風景のなかには、かれらが数千年前に見ていた景観も多少なりと含まれているだろう。ならばそこへ行って、同じ土や水の匂いを嗅ぎ、からだに同じ風を感じ、同じものを拾って食べて縄文人になり切ることで、かれらの意識を少しでもトレースしてみようと考えたのである。これは後に池上と「縄文脳インストール作戦」と呼ぶことになる方法であった。

実はこの書籍の中で、わたしが最も好きな部分のひとつがここです。

縄文文化というのは、世界でも類を見ないほど優れて豊かなものであったらしいのですが、わたしが今住んでいる高知県にたくさん残る森と海も、その当時と同じ部分があるはず。

そう思って、周囲の景色を眺めると、ふと縄文時代に戻ったような、何か不思議な気分になってきました。

縄文時代のこの森と海は、今以上に、いったいどれほど美しく豊かだったんだろうと想像したら、なにか楽しい想いになってくるのです。

ななみ
ななみ
わたしにも縄文脳がインストールされたかも・・・

現代人が見えていなかったもの

この項はネタバレがあるので、書籍を楽しみたい人は飛ばしてください。

さて、土偶は●●の姿をかたどっているの話に進みます

縄文遺跡を研究していると、およそ5500年前の縄文中期から、縄文人がヒエ、クリ、トチノキ、マメetcといった、植物食にかなり依存していたことがわかっているそうです。

なので、植物利用にともなう儀礼(植物霊祭祀)があったはずなのに、その痕跡がない。

動物霊についてはしかるべき祭祀が行われていた形跡がはっきりあるのに、最重要と思われる植物霊祭祀のあとがないのは、まったく説明がつかないのです。

では、「植物霊祭祀の痕跡が見つかっていない」のではなく、本当はすでに見つかっているのに、われわれがそれに気づいてないだけだとしたらどうだろうか。

実はこれこそが私の見解なのだ。

つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。

土偶こそ、縄文人が植物霊祭祀のために作ったフィギュアであった。

しかも、縄文人は何も隠していないのに、われわれがそれに気づいていなかった。

・・・としたら、これはどこかとても示唆的なものを感じます。

わたしたちは、人間はどんどん進化し、常に過去より現在、そして未来はずっと賢くなっていくと思い込んでいますが、果たして本当にそうなんだろうか。

もし竹倉氏の説が事実だとしたら、縄文人が特に隠そうという意図もなく普通にやっていたことが、現代人の目には全く見えていなかったことになります。

人間が時代とともに必ず進化していると思っているのは、もしかしたら、人間の大きな傲慢、勘違いなのかもしれない。

”海は水のある森であり、森は水のない海である”

この項はネタバレがあるので、書籍を楽しみたい人は飛ばしてください。

竹倉氏は「土偶は食用植物をかたどったフィギュアである」という仮説を立てて、それを検証する流れで本書の章立てができています。

しかし”椎塚土偶”という種類については、

「椎塚土偶のモチーフは牡蠣である」

という変化球を繰り出してきました。

ななみ
ななみ
ん?例外ありってことかな?

という、ちょっとした戸惑い。

しかし竹倉氏はこうつなげています。

椎塚土偶の解読から私が気づかされたことは、そもそも「植物」とか「貝類」といった観念は、現代人の認知カテゴリーに過ぎないということである。

これには、さすがにハッとさせられました。

「ハイ、これは〇〇類xx科」とわたしたちは当たり前のように区分、整理したがるけれど、それは人間側が、利便性のために作ったカテゴリーに過ぎない。

縄文人にとっては、貝類と堅果類の間にはそれほど距離感がなく、近似したカテゴリーとして考えていたのではないか、と竹倉氏は直感しています。

そのひとつの実証として、挙げられているのが、「ハマグリ」。

形が栗の実に似ており、浜辺に生息していることから「浜栗」の意味が定説。(中略)植物の栗も古代から重要な食糧であるため、「山の栗」に対して「海の栗」と考えたのであろう。

ハマグリの語源は「浜に落ちている栗=浜栗」なのだと。

「ハマグリ=蛤」と漢字を覚えさせられたところで思考がストップしているわたしたちには、思いつきようもない話です。

海は水のある森であり、森は水のない海である。

こんな言葉は初めて見ました。ある種のショックを受けています。
しかし、驚きつつも納得感が深いのは、わたしのオットが林業をしているからだと思います。

山・川・海はものすごく密接につながっている。それは、田舎に住む人なら誰でも知っていて、むしろ当たり前すぎてわざわざ口にしません。
なので都会の人間は、それを知らないのです。

わたしも、「海をきれいにしたければ、まず山から」ということを、こちらに来て初めて体感しました。

海だけ、川だけ、山だけが健康ということはありえないのだと。

海は水のある森であり、森は水のない海である。この一文は、現代人による恣意的なカテゴリー分けが、却ってわたしたちが世界を見る眼を曇らせていることを示すものとして、非常に印象的でした。

また、これは余談ですが、たとえば「害虫・益虫」というカテゴリーや、「害獣駆除」などのキーワードも、きわめて人間の身勝手なのだということが、田舎に住むとわかります。
存在が環境に害を与える獣や虫はひとつもありません。

世の中で本当に「いるだけで環境に害を与えうる存在」があるとしたら、それは残念ながら、人間ではないでしょうか?

学術書としての本書

竹倉氏が今回の土偶研究の結果を発表しようとしたら、関係各所から「考古学専門家のお墨付きをもらってきてください」とのストップがかかったのだそうです。

つまり内容を見る以前に、「考古学者でないあなたの研究は信頼できない」と決めつけられている。

わたしはアカデミズムの世界に詳しくはないけれど、(特に日本の場合)相当にクローズドで魑魅魍魎な世界なんだろうとは想像できます。

正直、いったい誰のジャッジを信用すればいいのかは全くわかりません。

そもそも、本書の学術書としての価値を、特にわたしのような一般読者があれこれ考えるのは、それこそ徒労だろうと思います。
冒頭にあるように、「俺の土偶論」が巷間にあまたある世界なのだから。

竹倉氏の筆致に巻き込まれて本書を読めば、もう竹倉氏の説が真実だと信じるに十分な納得感が得られる。一方で、この説が100%正しいと検証することは、今の時点ではまだ誰にもできない。
そのことをわかっていれば、それでいいのではないかと。

著者本人も、こうおっしゃっていることだし。

さあ、それでは私が「世紀の発見」に成功した人類学者であるか、はたまた凡百の「オオカミ少年」に過ぎないのか、ぜひ皆様の目で判断してもらえればと思う。ジャッジを下すのは専門家ではない。今この本を手にしているあなたである。

「さあ、読者諸君。」と、怪人二十面相かルパンにでも話しかけられている気分ですね。
そう、このあたりを一番楽しんでいるのは実は著者ご本人なのかもしれません。

ともあれ、土偶とハニワの区別もあいまいなくらいのわたしのような一般人を、まずは縄文ワールドに惹き込んでくれたことの価値は大きい。それができる学術書のほうがむしろ少ないのだから。

いつか竹倉説に白黒つく日が来ることを、それはそれで楽しみにしたいと思っています。

エッセイとしての本書

本書は、ある意味で「takekuraワールド」全開の書籍でもあり、エッセイ的要素もたぶんにあると思います。

象牙の塔に入らず、在野で研究をするというのは、どういうことか。
想像でしかないけど、たぶん、精神的にも経済的に、ふつうに考えたらなかなか大変なことだと思います。

少し本題からそれるけれど、わたしはもともと探検家が書く文章が好きで、植村直己氏、角幡唯介氏、高野秀行氏、などの本を読みます。ジャンルが違うけど、自然写真家の星野道夫氏も。

彼らに共通するのは、自分の関心事の前にはあらゆるハードルや不安を軽々超えていくこと。そしてなぜか文章が異様に上手いこと。

竹倉氏には、学者というよりどこか探検家に近いものを感じました。

こうした人々にまた共通しているのは「仲間」「支援者」がいることで、竹倉氏の周りにも、ある種のクレイジーさに共感する人が集まっている様子がうかがえます。

特に池上さんという優秀かつ時々気の毒な(笑)助手がおられて、竹倉氏の「探検」を温かく、そして生き生きと支えているように思います。

帰宅後、採集した貝を一通り試食してみることにした。収穫したのはマツバガイ、ベッコウガイ、ウノアシガイ、キクノハナガイである。鍋で塩茹でにして、まず池上に食べさせ、問題がないようであれば私も食べてみた。

とりわけ池上は常に私に帯同した。この四年間、春夏秋冬、津々浦々、山の頂から海の底まで行動をともにしてくれた。各所で拾ったものを最初に食べるのは彼の役割であった。

また研究アシスタントとして、運転、記録、撮影、画像編集、博物館や自治体との渉外など、多岐にわたってプロジェクトに協力してくれた。君のサポートによって本研究の質は大いに向上した。ありがとう。

池上ワトソン氏は、「とりあえず先に食べる」のが仕事らしい。

「土偶を読む」は、土偶の話をしながら、そこに関わる多くの人間の姿が見えてくるような生き生きとした情景を浮かび上がらせています。
道なき道を行く、若い研究者の人生を垣間見るエッセイとして、それだけでもまず大きな価値があります。

なんなら今度はそこの部分だけ切り取って書籍化してほしいです。絶対面白い。

まとめ

「土偶を読む」は、土偶の話ではない。

とまでいうと、語弊があるかもしれません。

大きなテーマは、「土偶は何をかたどっているか」「土偶は何に使われたのか」のシンプルな2点であり、もちろん、9割がた土偶の話をしています。

でも、そこから与えられるインスピレーションは、縄文人の人知、それに対比される現代人の愚昧、わたしたちに見えているようで見えていない何か。

土偶そのもののミステリー解明はもちろん知的好奇心を素晴らしく刺激してくれますが、そこを飛び越えてさらに与えてくれるものが大きい。

わたしは、最終的に本書が「学術書」なのか「ミステリー」なのか「エッセイ」なのか、ジャンル分けはできていません。多面体のような書籍だと感じました。

おそらく、読者ごとに輝き方や色の見え具合が変わるはずの本なので、誰にとってみても何かの発見があるのではないかと思います。

最後に

本書の最後の最後に、ご両親に対する謝辞が述べられています。
その一文があまりに美しく、こんな謝辞を見たのは初めてかもしれないと思いました。
実は本書の中で一番読み返したのがここです。

どこで何をしている時でも、私が自分の中に揺るがない安心と信頼を感じて生きていられるのは、両親が注いでくれた愛情のお蔭である。父は常に私の最大の理解者である。すでに肉体を持たない母は、いまなお魂のなかで私を鼓舞し続けている。本書を二人に捧げる。

早くも、次作に期待!!