思考

天才と異才の間で思うこと【オードリー・タンと栗城史多】

こんにちは、ななみです。

年末年始も「雪」だったのですが、そのあとさらなる「大雪」がやってきました。
スタッドレスタイヤも準備してないので、開き直ってオットとふたり、巣ごもり(というか孤立)生活でひたすら本を読んでいました。

たまたま続けて読んだのがこの2冊。

台湾の”若き天才IT大臣”と言われるオードリー・タン(唐鳳)さんの評伝。

そして、インターネットから登山を配信して時の人となり、2018年にエベレストで滑落死した栗城史多さんの評伝。

偶然ですが、オードリーさんが1981年生まれ、栗城さんが1982年生まれで、ほとんど同年齢のふたりがたどった軌跡。

”スポットライト”を浴びている(ていた)という事実以外、似たところはほとんどないふたり。それでもそれぞれの濃密な35年のストーリーは、改めて人生って長さより濃さなんだなぁと思い知る次第です(長いほうがいいけど・・・)。

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まず、オードリー・タン(唐鳳)さん。
IQ180、学歴は中卒、ビットコイン長者、トランスジェンダー、台湾の史上最年少大臣。気になるところの多すぎる人です。

これほどの個性と能力があると普通に生きることも大変らしくて、本の中にもいろいろ苦労したエピソードが書かれていますが(転校、いじめ、家庭内の軋轢など)、それほど重苦しく書かれていないのが幸いです。

賢すぎる大変さはわたしにはわかりませんが、それでも時代がマッチしていたのはラッキーだったのではないでしょうか。
若い時から自分のコンピュータに関する能力と嗜好に気づき、その方面に集中して伸ばすことに専念できたようです。

また、トランスジェンダー(出生時は男性、20代からは女性として生きる)という個性も、今の時代であれば、大きな障壁とならずにすんでいます。
というより、オードリーさん自身の功績がトランスジェンダーへの偏見を自らなくすことの一助になっていると言ったほうが正しいのかもしれません。

香港の民主化運動にも大きな影響を与えたといわれる2014年の台湾の社会運動「ひまわり学生運動」では、ITの力で「すべてを透明化(中継)」することでその運動を支え、そして現在のコロナ禍での活躍は、特にここで繰り返すまでもありません。

天才なりの苦労があったにせよ、いかんなく能力を発揮できているスーパースターという印象を持ちました。
また時々メディアでオードリーさんの肉声を聞いたりしますが、物腰もコメントも柔らかく(賢いゆえの”鋭さ”はまた別の話として)個人的にとても好感を持っています。

一方、栗城史多さん。
2004年に初めての海外旅行でマッキンリーに向かい、その登山を成功させてからは、アコンカグア、キリマンジャロなどの登頂も次々と成し遂げていきます。

同時に、登山の様子をインターネット(自撮り)で中継することで”冒険の共有”を謳い、若者層を中心に、圧倒的な人気を博するようになりました。

しかし2009年ごろからは、エベレストにチャレンジしては敗退するという時期が続き、2018年には8度目のエベレスト挑戦に際して、滑落死するという最期を遂げています。

オードリーさんと栗城さんの詳細な生涯についてはここで書くべきことではないのですが(上に挙げた2冊は大変面白いのでおすすめです)、ふたりそれぞれの約35年の評伝を読んでわたしが勝手に感じとったこと。

それは、「人は他者にどう接するべきか」というシンプルなことでした。

 

しかし、オードリーさんの人生と栗城さんの人生とでは、読み取れることの意味合いが違いました。

オードリーさんは社会に対し自分がどういう位置づけであるべきかを、早い段階で判断しています。図にするならば、こういうイメージです。たとえば学校に通わないこと。たとえば親の勧める科学者ではなく、「プログラミングの世界ならパイオニアになれる」と道を決めたこと。たとえばトランスジェンダーであることを表明すること。

環境と能力と個性を分析して、他者に対する自分の位置づけがどうあるべきかを考えたように思われるのが、オードリーさんです。

一方、栗城さんの人生から感じることはちょっと違いました。

著名になりはじめてからの彼の周囲には大勢の大人がいて、純粋な応援者のほかに、「ただ面白がって煽った人」もいれば「お金儲けのため」に寄ってきた人もありました。

彼はそうした人々の期待に応えようと、また一方ではおそらく自分自身の功名心もあって、”無謀なチャレンジを繰り返さざるを得ない”環境にはまっていきました。

また直接彼と面識がない”世間”、多くは「ネット民」と呼ばれる不特定多数の人々も集まってきます。
初めは彼を持ち上げて称賛したものの、やがて一部は飽きて離れていき、ある一部は攻撃に転じて彼を「嘘つき」「プロ下山家」などと罵倒するほうへと変化していきました。(途中からただ罵倒するためだけに集まってきた人も多かったと思われる)

彼は、直接・間接に関わった人々に持ち上げられ、落とされ、追われるようにして、ある意味で緩やかな自殺のように、亡くなっていきます。

もちろん栗城さんの死の責任がすべて「他人」にあるわけではないと思うものの、誰かの誰かに対する態度が積み重なって、人を追い詰めていくことがあるということを我々は認識しなければならないということを強く感じました。

つまり栗城さんの人生から感じたことをまとめると、「自分が社会の一員として、ある個人に対してどう接するか」ということの重要性です。

オットは栗城さんとその行動について、「フィクションでもノンフィクションでもなくて、エンターテイメントとして受け止めてあげられれば良かったのに」と言っていました。
確かにそういう面があると思います。
受け止める側の成熟度が問われたのか、あるいは栗城さんの発信の仕方の問題だったのか。

オードリーさんが間違いなく天才ならば、栗城さんは異才。比べるものでもないのですが、対照的でした。新しい気づきを与えてくれたようです。

栗城さんが存命ならばまだ続編が見られたのに、とても残念です。