ショーペンハウエル 「読書について」の衝撃
最近、「読書」について改めて考える機会があり、そういえば、と思い、スゴく久しぶりにショーペンハウエルの読書について を読み返してみたら、改めて刺さりまくりでした。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである」
「いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問」
「学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人」
読書は素晴らしい、自分はこんなに読書してます、って話はとても多いですが、
「読書とは他人にものを考えてもらうことである」
ここを理解しつつ読んでいる人がどれだけいるか。
逆に本を読むことで「自分って勉強してるな~」って悦に入ってしまうことのほうが多いのではないでしょうか。
さらに、
「(自分で考えず)他人から学んだに過ぎない真理は、我々に付着しているだけで、義手義足、入れ歯に過ぎない」
おおう・・・
読書って入れ歯だったのか(・∀・;)
ショーペンハウエル、凄い・・・
半端な精神力で半端な読書すると、雑音しか出せないそうです。
読書家ではなく、思想家たれ。ショーペンハウエルはそう説く。
もちろん、「だから読書はムダだ」という話ではありません。
読書家ではなく、思想家であれ。
そういう話なのです。
思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。
- むずかしい問題の解決にあたって、権威ある言葉を引用したがる
- 自分の理解力や洞察力の代わりに他人のものを動員できる場合には心の底から喜びを感ずる
- 他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾ってひとつの体系をつくる
そして、
セネカの言葉にあるように、 「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」
心当たりありませんか?わたしはありまくる!!
ななみん’s View
「読書家」は、誉め言葉じゃない。
読書には、「自分は何もしてないのに、やった気になる」リスクがあるのです。
もしかしたら寝てるほうがマシかも!?
いっぽうで、思想家とは、人類の蒙をひらき、その前進を促すもの。
読書家と思想家の差を意識できているかどうか。
その読書は世界を少しでも変えるのか?を意識するといいかもしれない。
本を読みつつ考えたいことは以下のとおりです。
- 常に、「考えているのは自分ではなく、作者だ」ってことを忘れない
- 量と質を伴った読書をする
- 単なる読書から思索へ昇華させることを意識する