思考

四万十川にメガソーラーができるかも、という危機。いったん回避されました

以前こちらに投稿した、「四万十川のメガソーラー建設」問題。

四万十川に「メガソーラー」ができるかもという危機我が家の目の前にメガソーラーができる計画があるという。 全区画8ヘクタールを開発し、うち4ヘクタールをメガソーラーにするという計画。 ...

河川敷にメガソーラー(↓こんなの)を建てようという、ぶっとんだ計画です。

(写真は弘前市のHPからお借りしました)

メガソーラー計画は、「不許可」になりました

これが、四万十市によって、「建設不許可」の判断が下されました。

四万十川ソーラー 市が不許可に 四万十川条例に曖昧さも (2019.11.30 高知新聞)

カンタンにまとめると、

  1. メガソーラーにより景観が悪くなることを避けるための遮蔽設備、その効果が十分でない
  2. 川にソーラーパネルが流出する可能性など、安全性が確保できない
  3. 再三要求したにも関わらず、住民へきちんと説明会をしていない

というのが、「四万十市がメガソーラー建設に対して不許可を出した理由」です。

良かった!!!

結果については、良かったの一言しかない。

ただ、これはこれとして、今回のメガソーラーの件に関連して、わたしは自分の中で非常にいろいろ葛藤したり、考えさせられたりすることがありました。

メガソーラーの件に関連したわたしの思考

1.「黒船」への不安の件

今回はいいとしても、将来について考えれば考えるほど不安もつのります。

特にわたしが恐れるのが、外国資本。

外資は、契約や訴訟に関して日本よりずっとシビアにやる気がします。

こんな業者がやる気満々で四万十にやってきたら、初めから訴訟ありきの姿勢。条例の穴なんていくらでも見つけそうだし。
メガソーラーに限らず、遊興設備や大規模リゾート開発など、他にも色々考えられます。

四万十川は外国人観光客も多く、逆に言えば、外資から目をつけられる可能性も多いのでは。(買いかぶりだといいのですけど・・・)

残念ながら、こんな場合は「反対署名」なんて情緒的なものはまったく役に立たなさそうです。

いったい四万十市にどんな手が打てるだろう。

2.「お前は何様だ」の件

このメガソーラー建設反対運動中、ある人に

「みんな使ってる四万十川沿いの県道、国道でさえも、川にとっちゃ良くないで」

と言われたことがあります。

うっ

い、いや、インフラと営利目的のメガソーラーは全然違う、と言いたかったけれども。

「違う」はどこからどこまで?誰が決めるのか?考えるとわからなくなり、何も言えなくなりました。

そもそもわたしは「四万十市までバシッと高速が来たら~♪便利だなぁ」なんてしょっちゅう考えるような人間ですし。
もし、

エラそうに「メガソーラー反対」というが、お前は何様だ?メガソーラー側の人間と、本質的にどこが違うのか?

と問われると、正直つらいな、と思うところです。

3.「正義とは何か」の件

今回、わたしなりにカフェで一生懸命署名を集めていたのですが、そのときにとあるお客さまから、

僕は太陽光に関連する仕事をしているので、署名できないんです。ほんとに、すみません・・・

と言われたことがありました。

いえ、こちらこそ、すみません・・・

せっかくお金を払って時間をかけてカフェに来てもらったのに、こちらの勝手な主張で、居ずまいの悪い思いをさせてしまった。

反対署名に限らず、「絶対的に正しい」と自分は信じている行動でも、まったく知らないところで関係のない誰かを傷つけることがあるんだと、初めて知ったような気がしました。

これは、個人的にかなりショックでしたね。

メガソーラーの本質的な問題は何か

メガソーラーに限らず、この四万十界隈では、「風力発電」など、次から次へ同じような話が持ち上がります。

なぜ、こんな話が繰り返されるのか。

わたしなりに思うのには、こういった問題に絡んでよく出てくる、聞きなれた単語。

  • 地権
  • 条例
  • 訴訟
  • 景観
  • 文化
  • 保存
  • 自然
  • 安全

でもこれらすべてが「人間本位の思考」であるところにはじまっているのではないかと感じます。

たとえば「地権」という区切りも人間が作っただけだし、逆に「景観」「安全」なども人間目線でしかない。

そして誰もが、自分の権利や義務が正しいと思い、正義として主張してきます。
でもそれはあくまで「人間社会の中の共通言語において」の話。

もしかしたら、四万十の土、水、動物、植物にとって、望ましい景観や、安全の定義は全然違うかもしれない。彼らは地権なんか主張しない。

たぶんすべての生物に対して、シンプルに「恩恵」「存在」であるはずの四万十川について、人間の決めた仕組みや価値観(たとえ、それが良いことでも悪いことでも)をあてはめようとするところが、そもそも傲慢なのではないか。

とはいえ、わたしたちはすでに完全な資本主義の中で生きており、原始に戻るわけにもいかない。

と思うと、出口がまったくわからなくなります。

いったいどこで折り合いをつけるのか、ずっと問われながら、まだこうした問題は起き続けるように思います。