思考

流行を追わずに、時代に乗る 

こんにちは、ななみです。

先日、テレビを見ていたとき。

とある、遅咲きの芸人さんが、なかなか売れずくすぶっていた時代に、タモリさんから

それでも流行は追うなよ

と言われ、それを守ってきた。
という話をされていました。

これは、シンプルだけどいい話だ!と思ったんですよね。

タモリさん司会の「笑っていいとも!」はなんと、31年半に渡って続いたそうですが、正直、いつ見ても同じように見えませんでした?

これ、よく考えると、すごいことなのかもしれない。

つい、「マンネリ」とか「飽きられる」ことを怖がって、いろいろやっちゃいがちなものだと思います。

もちろん気づかれにくいように、様々なテコ入れがあったはずですが、基本は「いつ見ても同じ(ような)番組」であり続けるというのは、かなりの勇気だし、だからこそ31年半続いたんだろうなぁと。

さて、わたし自身も(あまりエラそうに言うほどでもないけど)流行は追わないと心がけていることがひとつあります。
それはカフェの経営のこと。

とにかくカフェやスイーツなどは、流行の変化がすごく激しいです。
ごく最近の例だと、「マリトッツオ」など。


マリトッツォ、作るのはそれほど難しいものではありませんが、結局、うちでは出しませんでした。

その理由は、いったん何か流行ぽいものを作ると、また次に何かが流行ったときに、出さざるを得なくなるから。消耗戦の予感。

それに、いったん過ぎたマリトッツォの流行は、たぶんもう来ません。
すると、マリトッツォのために磨いた技術は、すべてムダとは言いませんが、今一つ自分の中の蓄積にはなりにくい。

さらに言えば、オリジナルのマリトッツォ開発・試作にかけた時間の分、「いつものお菓子」のクオリティが下がってしまうリスクもあります。
一時的にお客さんが増えたとしても、長い目で見れば、やはり損。

もちろん、これはうちの事情(というよりわたしのキャパシティの小ささ)であり、「追わなかった」というより「追えなかった」だけで、もっときちんとしたパティシエでしたら、問題なくやれたはずです。

なんといっても

地方在住
地方在住
テレビで見るあれ、食べてみたいな~

という地元の方々の希望を叶えて差し上げたい、という気持ちはあるんですよ。
都会ではどうってことないものでも、地方ではなかなか入手できないので。

ななみ
ななみ
というか、結局わたしまだマリトッツォ食べてないんだが・・・

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そして、「流行を追わない」ことと同程度に、いや、それ以上に、重視しているのは、「時代に乗る」ということ。

乗る、というのは、「大きな波に寄りそう」とか「とりあえず1回受け入れる」とかそんな印象です。

まず、例として一番わかりやすいのはやはり「デジタル化」でしょう。

デジタル化は距離・年齢・性別・体力など、さまざまなギャップを埋めて、生活をしやすくしてくれます。
もちろん弊害もあるでしょうが、それでもメリットとデメリットを比べれば圧倒的にメリットのほうが大きい。

デジタル化の変化はあまりに早いので、意識して少しずつキャッチアップしていかないと、すぐにわたしと時代の最先端との距離が埋めようもないほど大きくなります。

わたしがこのように思うのには、実は自分の母親を見てきた経験がありまして。

わたしの母は、世の中にビデオデッキが登場すると、なんとか「再生」は覚えたものの、「録画」のやり方がいつまでもアヤフヤなままでした。

根底には、”家族の誰かに頼めばいっか”という気持ちがあるせいか、何度聞いても頭に入ってこないみたいなのです。

そうこうしているうちに、DVDの時代になり、そのあとはネット配信です。

そうなると、わたしの母のように、VHSで止まった人間が、高齢となった30年後にネット配信にキャッチアップするのはもうほぼ無理です。

わたしはそれを見ていて、

ななみ
ななみ
広がりすぎた時代との差は、歳をとると埋めるの不可能だな

ということをつくづく感じました。

それでも子どもがいれば、”最新事情”みたいなことは気軽に聞くことができます。

でもわたしには子どもがいないので、自分と時代の差を埋めるものは、自分の努力と意識しかない、ということを覚悟しています。

これは、がむしゃらに最新の機器を買うということでもなく、最新のサービスを必ず利用しなくては、ということでもありません。

ただ、世の中の時代の変化には必ず何か理由があるはずで。
ならば、世の中でなぜそういう波が来ているのか、考えてみることが一番重要なように感じます。
その上で、使ってもよさそうな商品や機能ならば、先入観を持たずにちょっと使ってみる、という小さなアップデートを自分の中で繰り返していくことことが自分にとっては大事です。

なお、「時代に乗る」というのは、必ずしも利便性のためだけではありません。

デジタルの商品やサービスだけではなく、たとえば「同性婚」「SDGs」「夫婦別姓」「FIRE」etc
すべてが時代の大きな流れ。

なんでもかんでも賛同、同調する必要はないにせよ、「こういう時代の変化を求めている人がいる」というのには、何らかの背景があるはず、ということを想像する。

誰かの痛切な未来への希望が、今日の変化を作っている。

時代に乗る、というのは、こうした事実をいったん受け止めて消化するということ。

結局、それが自分の暮らしも風通しのいいものにするような気がするからです。

アラフィフにもなると、そろそろ「自分のやり方に固執して頭の固くなる人」と「いつまでも柔軟性を保ち続ける人」とにくっきり分かれていく分岐点に近づくように思います。

本日はちょっと自戒の念を込めて書いてみました。