こんにちは、ななみんです。
昨日、高知県立美術館に続いてハシゴしました。
向かったのは、高知県立文学館。
こちらは初めての訪問です!
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高知県立文学館を訪ねる
紅葉がきれいな高知城の公園の中。
山内一豊を横目に過ぎると・・・
すぐに文学館が見えてきます。
名前の通り、高知県ゆかりの文学者を紹介している場所なのですが、今回は特別に「江戸川乱歩」に関する展示をしていました。
改めて知る江戸川乱歩の人生
江戸川 乱歩(1894年(明治27年)10月21日 – 1965年(昭和40年)7月28日)は、大正から昭和期にかけて活躍した推理作家。エドガー・アラン・ポーをもじって名前をつけたのは有名な話です。
小学校の図書室でこのシリーズを読んだ、という人は多いはず。
わたしに「活字を読む」という習慣を与えてくれたひとりは、江戸川乱歩でした。
が、そういえば、「人となり」はあまり知らないなぁと・・・
今回は、本名・平井太郎という三重県出身の一青年が、いかにして「江戸川乱歩」となっていったのか。そんな話が改めてよくわかる展示でした。
- 8歳のころから探偵小説に興味を持ちはじめ、13歳から黒岩涙香に没頭。
- 20歳からは、ポー、ドイルなどを原文で読みふける。
- 21歳で、ホームズを試訳。24歳でドストエフスキーに傾倒。
- そして28歳でとうとうあのデビュー作「二銭銅貨」を書く
このあとは、戦争の時代に巻き込まれたりしながらも、比較的順調に作家として歩んでいくことになります。
さらっと年表を見ると、小説を愛し、小説に愛された青年がわりと順調に「好きこそものの時上手なれ」と言わんばかりに作家デビューしていった感じがします。
が。
しかし、社会人・サラリーマンとしての平井太郎の道のりはどうだったのかというと、
- 「就職→出奔→旅に出る」
- 「再就職→本を読みふける→逃走」
- 「再々就職→倒産→旅に出る」
みたいな話ばっかりで
って感じ!!!
就職を繰り返すあたりは、生活を安定させようという気持ちがあったことはわかりますが、なんかすぐ辞めるか、そうでなければ会社のほうが倒産するか。
どう見ても「会社の神様」には愛されていないらしい。
そしてすぐ旅に出てしまい、その裏で本を読みふけっています。
ただ、彼がもし会社員として順調だったならば、小説は趣味程度で終わったかもしれません。会社に縁がなかったことも含めて、彼は幸運だったのでしょうね。
本人もこんなことを言っています。
「振り返って見ると、私はいつも子供であったし、今も子供である。もし大人らしいところがあるとすれば、すべて社会生活を生きていくための「仮面」と「つけやきば」にすぎない」
ところで「引っ越し魔」として46回の転居を繰り返した乱歩でしたが、最後は池袋に居を構えて落ち着きました。膨大な蔵書を収納できる「土蔵」があったことがその理由だったようです。
たおやかな旧居の様子がわかります。乱歩は「整理魔」で「メモ魔」で、ようはとてもまめな人だったよう。
家族にも恵まれていたし、ちょっとおどろおどろしい江戸川乱歩の作風とは全く違って、平井太郎氏の人生はとても幸せな感じがしました。
高知県と「推理(探偵)小説」の意外なつながり
ちなみに、江戸川乱歩が世に出るためには黒岩涙香、馬場胡蝶、森下雨村、という、文壇の重要な3名が大きな役割を果たすのですが、その3名ともが高知の出身というが今回わかり、とても意外な感じがしました。
- 黒岩涙香(高知県安芸市出身)・・・万朝報という新聞を作った明治の新聞王。海外の探偵小説を多く翻訳して連連載し、日本の探偵小説の礎をつくった。
- 馬場胡蝶(高知県高知市出身)・・・雑誌「文学界」で活躍しした文学者。乱歩と親交が深く、後押しをした。
- 森下雨村(高知県佐川町出身)・・・雑誌「新青年」初代編集長。海外探偵小説を多く紹介し、江戸川乱歩や横溝正史を世に送り出した人物。
乱歩もこんなことを言っています。
土佐人の伝統と性格の内には、探偵小説(なぞと推理の小説)を愛好するような要素が、他国人に比べて濃厚なのであろうか。
あくまで個人的見解ですが、土佐人の内なるものの中には「謎と推理を愛好するような要素が」あるように
むしろ
って感じだけど・・・
わたしのまだまだ知らない何かがあるのかもしれませんね。
森下雨村は、東京の文壇で華やかに成功し、地位もありながら、親の世話のために50歳で佐川町に戻り半農半漁の生活を送ったそうです。昔のUターンですなぁ。
もう絶版ですが、雨村の「猿候川に死す」は、釣り随筆のロングセラーだそうです。
ななみん’s VIEW
会社員になろうと頑張りながらやっぱりダメだったけど、子どものままの気持ちで推理小説を読み続け、書き続けた江戸川乱歩の生涯はなにやらとても羨ましい感じのするものでした。
高知と乱歩。オモシロい視点でした。