なぜ高知へ移住、そして林業だったのか。
この問いは、私が高知県に移住後、最も多く受けた質問です。
質問を受けるたびに、簡潔にその理由や経緯を答えてきました。
内容は毎回少しずつ違っていたかもしれません。どの答えにもウソはないのですが、いつも内心、「それだけじゃないんだけどなぁ」とつぶやいていました。
簡潔に答えていたのは相手に配慮してのこと。相手も半分は挨拶がわりに聞いてくるだけで、長々と聞かせたら悪いかなと・・・
今回、この問いに対する答えを余すことなく文字にしてみると約8000字。簡潔に答えていた私の配慮は正解だったと改めて思いました・・・
そのようなわけで、今回は連載10回目にして初の長編です。
前編、中編、後編と続きますが、よろしければお付き合いください。
CONTENTS
始まりは海外から
私は20年近い勤め人生活の大半、海外関係の仕事をしていました。
小学生の頃に父親の転勤でアメリカに住んでいた帰国子女ではありますが、学生時代は特に海外志向が強かったわけではありません。
むしろアメリカナイズされた小学生時代の反動からか、10代後半からは日本礼賛に傾倒しました。(といっても、映画「男はつらいよ」の世界をこよなく愛するような穏健な日本礼賛です)
英語が得意なくせに、大学はあえて英語の配点の低い学部・学科を受験するというひねくれぶり。(今思うと、ちょっとイヤなヤツです)
しかし就職の頃は、ちょうどバブル崩壊直後の氷河期にあたり、贅沢は言ってられない。
自分のやりたいことよりも、得意なことを優先せざるを得ず、結局英語を活かせる海外関係の仕事に落ち着いてしまいました。
そんな、ねじれにねじれた感じでスタートした社会人生活でしたが、いざやってみると海外関係の仕事は刺激的で面白く、また得意な英語を生かせることもあって、思いのほか「水を得た魚」。スイスイと順調にその世界を泳いでいました。
移住後にふとパスポートを見てみると、直近10年間で70数個の出国スタンプがありました。海外出張と個人的な旅行で訪れた国は様々。欧米・アジア各国、ロシア、ブラジル、中東ドバイ、モロッコ、キプロス、珍しいところではサウジアラビア、南アフリカ 等々。これまで訪れた国は40カ国くらいになります。
当時は現地の人と仕事をする機会も多く、「文化」の違う人々との仕事では多くの苦労もありました。その中で、「相手のやり方を尊重しつつも、言うべきことはきちっと言う」という異文化コミュニケーションの秘訣のようなものが身についた気がします。
それは、海外経験の豊富な妻も同じで、許容範囲の広さやちょっとやそっとのことには動じないことが移住後の我々夫婦の強みにもなっています。
個人的な旅では、初めは都市部(ヨーロッパの旧市街など)を訪れることが多かったのですが、ある国との出会いが、私の志向を大きく変えるようになります。
ブータンとの出会い
チベット仏教を篤く信仰する、このアジアの小国は「幸せの国」の異名で知られていますが、実際に行ったことのある人は少数でしょう。
国の方針で観光客の数を制限しており、旅の準備がなかなか面倒なのです。
私がこの国に興味を持ったのは、海外通である当時の職場の上司の一言がきっかけでした。
「今一番行きたい国はね、ブータンなんだよ」
その人は、社会や会社の常識にあまり縛られない自由人で、センスの良い和風建築のご自宅にはドーミエのリトグラフのコレクションを飾り、ロンドンに別宅をお持ちという、ちょっと浮世離れしたところもありました。
海外の知見も私よりずっと多いその彼が言うのだから、ブータンはよっぽど良い国に違いない。ブータンという国がまだ見ぬ理想郷として脳裏に刻まれました。
それから数年経った2009年、私は念願のブータン入りを果たすことになります。
ブータン・ショック
ブータン人の生活は一様に質素で、国民の大半は農民です。(2009年当時)
電気、水道などの基本的なインフラは整っているし、車も走っているものの、最大都市にすら信号機もまだなく、高層ビルと呼べる建物もありません。
ちょっと郊外に出れば、生活様式は日本の昭和初期?と変わらないようにも映りました。
ブータン人の衣服も日本の着物に似ており、容姿も日本人そっくり、まるで昔の日本にタイムスリップした感覚です。
ブータンについての知識がなければ、「経済発展から取り残された、貧しい発展途上国の1つ」に過ぎないと思ったかもしれません。
でも実は、国の政策として、公正で持続可能な社会経済開発、自然環境保全、文化の保護と振興、そして良い統治を目標として掲げてきた結果だと知ると見方は全く違ってきます。
ブータンは、インドと中国という巨大な隣国に挟まれた狭い国土の国で(九州とほぼ同じ面積)大半が山間地でもあるため、主要な産業も乏しく、経済発展の素地にも恵まれていませんでした。近代になってアジア各国が経済発展する中、独立国家として生き残るため、経済成長一辺倒ではなく、国民の幸福を優先することを国の目標に掲げました。
そのベースとなるのが有名なGNH(国民総幸福量)という考え方です。
これは経済成長を重視する姿勢を見直し,伝統的な社会・文化や民意,環境にも配慮した「国民の幸福」の実現を目指す考え方で、1970年代にブータンの先代の国王が提唱したものです。
詳しく知りたい方は以下のサイトをご参照ください。(外務省のページにリンクします)
わかる!国際情勢 ブータン~国民総幸福量(GNH)を尊重する国
GNHが提唱されてから30年後のブータンが私の目にどう映ったか。
- 文明の最先端からは遠いが、皆が平和で穏やかに暮らしている
- 大金持ちはいない代わりに浮浪者や物乞いもいない
- 教育水準は全般に高そう
- さらに、一定の教育水準以上の人は国際情勢にも詳しそう(英語が半分公用語)
- 不便さはあるが、豊かな自然が残っている
- 自然や伝統的な暮らしが重要な観光資源になっている(その証拠に世界的に有名な高級ホテルチェーンであるアマンリゾーツの宿泊施設が狭い国土に5軒もある)
- 国民は総じて幸せそう
これはもちろん通りすがりの旅行者がブータンのほんの一部を見た感想に過ぎず、正確な実態をすべて表現できているとは思っていません。
ちょっと調べれば、ブータンでも情報化社会の進展にともない「都会的な生活」を志向する若者の都市部への人口流出や、その都会における失業問題、また、都市部と地方の格差も生まれてきているなど、多くの問題を抱えていることはうかがえます。
しかしそれでもなお、ブータンに流れる空気感、そして人々の表情は、私がこれまで見てきた他のどの国とも違う、平和でストレスの少ないもののように感じられました。
数字でも、言葉でも表現し尽くせない”本質的な何か”がある国。私は直感的に「ここが好きだ」と思えたのです。
まさに私にとっては、「ブータンショック」ともいえるカルチャーショックでした。
ブータンから帰国した以降は旅行先の志向も変わり、ラオス、ベトナム、キューバなど、海外の田舎が中心になりました。
しかし、いったん旅先から帰国すれば、やはり経済発展至上主義の日本の社会で、仕事に忙殺される生活にすぐ逆戻り。
だんだんと、そのギャップに違和感をおぼえるようになったのです。
気持ちは地方移住へ
40歳を過ぎるころになると、会社員としての行く末もなんとなく見えてくるようになってきて、このままでいいのだろうかという疑問が徐々にふくらんできました。
また、その頃になると、夫婦で国内の地方に旅行する機会も増えてきました。
今考えると、心のどこかで移住の準備を始めていたのかもしれません。
ただ、多忙のあまり、人生を変えることまで具体的に考える余裕もない日々が続きます。
しかし40代も半ばに差し掛かるころ、担当業務が変わり、期せずして時間的な余裕が生まれます。
そのときようやく、それまでぼんやりとしか考えられなかった人生の軌道修正(ライフシフト)のプランを具体的に考えることができるようになったのです。
ちょうど連動するように、同じようなライフステージにいた1つ歳下の妻もライフシフトを意識するようになったようでした。
2人で話し合ううちに、いつからか、地方移住という方向に舵を切ることになりました。
私が地方移住に気持ちが向くようになった理由はいくつかありますが、ブータンに行ったことが大きな布石になったことは間違いないと思います。
第二の人生は経済的な豊かさよりも、精神的な豊かさを求めたい。
それなら都市部より田舎の方がよい。その1つのモデルがブータンだったと思います。
しかし、さすがにブータンに移住するのは非現実的。
そこまで生活様式を変える勇気は私にも妻にもありません。
他の海外の田舎もやっぱりハードルが高い。であれば国内で。日本国内であればどんな田舎だろうと基本的なインフラ、公共サービスは整っているだろうし、大丈夫ではないか。
そのような論理展開を経て地方移住に心が決まっていきました。
(今、見ると四万十川にも似たブータンの風景)
次回、中編に続きます。
それではまた次の記事でお会いしましょう。
▶ 【木曜更新】オットの連載 小さな林業の始め方 ⑪ なぜ高知へ移住、そして林業だったのか(中編)