こんにちは、ななみです。
わたしたちのカフェは「コーヒーとケーキ」を出していて、わたしがケーキ作りを担当しているので、世間からは時々「あ、ケーキ屋さんの・・・」と呼ばれることがあります。
もちろん、ケーキ屋さんと呼ばれてイヤな気持ちがするわけではないです。
いやむしろ、わたしなどがケーキ屋さんの末端に加えて頂いてよいのかと恐縮です。
ただ、一方で、その呼び方には、なぜか「くすぐられているような違和感(不快感ではなく)」を感じることがあるのです。
そのことについて今日は考えてみたいと思います。
「ケーキ屋さん」と呼ばれる違和感の正体
「ケーキ屋さん」と呼ばれることの違和感の正体は、おそらく、わたしがカフェで「売りたいもの」と「売っているもの」の間の、「ズレ」から来ていると思うのです。
第三者から見れば、わたしたちは「カフェという空間&コーヒー&ケーキ」を売りたいと思っていると思われるはずです。そりゃそうだろう・・・
でも実をいうと、わたし(たち)が本当に売りたいもの、というか、伝えたいものは、
「森とまちをつなげる」
という考え方、概念なのです。
といっても、「概念1000円です」というカフェはちょっと難しい(というか新しいのか?)。
概念を伝えるためには、それを可視化し、人と人の間に介在する何かが必要です。
その介在者が、わたしたちにとっては、コーヒーでした。
わたしたちのコーヒーは、オットが山から伐り出した木を薪にして焙煎しています。
都会から来たわたしたちが林業に携わりながら、”なぜこんなにも、森とまちは遠い存在になっているのだろう?”、と日々考え、
「薪で焙煎する美味しいコーヒーがある、っていうところから、森に興味を持つ人が増えるかも」という気持ちで作っているコーヒーです。
ついでに言うと、四万十の水で淹れるのもポイントなんですけどね。
つまり
<カフェ経営の>
- 目的(売りたいもの)=概念「森とまちをつなげる」
- 手段=コーヒー
- サポーター=ケーキ
となります。
なのに、目的のための手段の(さらにサポーター)であるケーキ自体が、カフェの存在意義のひとつのように語られることに、違和感を感じているのです。
ただこれは、わたしを「ケーキ屋さん」と呼ぶ側ではなく、ちゃんと目的や本質を伝えられていない、こちら側の責任なんですよね。
いかにも八百屋だけど実はワインバーですよ、とか面倒くさい店じゃないですか。
だったらわかりやすくしてくれよと。
やはり発信者側の責任だと思っています。
それでもケーキにこだわる理由
さて、「目的を達成するための手段(のサポーター)であるケーキ」、と書きました。
それでもわたしは可能な限り「美味しいケーキ」を出したいと、足りない経験や技術の中で、必死に考えています。(だからケーキ屋さんに見えるのかも)
なぜなら、いくら概念だのなんだの云々いっても、出されたケーキがあまりにまずかったら、なんとなく説得力ない。
「こんな舌持ってるやつが何言ってやがる」と思われると思う(たぶんわたしは思う)。
それに、「ケーキがまずい」という記憶はけっこう破壊力あります。
概念も景色もコーヒーもブチ壊され「あそこケーキまずかったね~」だけが記憶に上書きされるのは避けたい。
不出来なケーキによって、大切なものの邪魔をしたくないのです。
最後に一番(?)重要な理由として、自分がまずいケーキ食べたくないというのがありますw
ポスト・コロナについて考えたこと
今回のコロナ禍は色んな方面で惨禍をもたらし、我が家にも色々な打撃はありました。
しかしあえて良いことを数えるとすれば、「何のためにカフェを始めようとしたんだっけ」ということを、静かに考える機会を休業によって得たことが挙げられます。
移住してカフェをはじめてずっと、日常をこなすことで精いっぱい「やった気」になっていました。
これが、サボりからではなく、むしろ一生懸命だから、より始末が悪いと思うんですよね。
プールで必死に泳いでいるうちに第一コースから第六コースに行ってる状態です。
本質や初心から少しずつずれていくのも、長い時間が経つとだんだんわからなくなるのです。
こんな、貴重な精神修養の期間を経たあとの、ポスト・コロナの時代。
カフェの本質・目的をどのように伝えていくかを念頭に、また再開していく予定です。