須賀敦子(1929-1998)が残した多くない著書の中に、「塩1トンの読書」という読書エッセイがある。
これを読んだ人の大半は、まずこの序文に射抜かれるようだ。
「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、1トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
これは須賀さんの夫の母、つまりイタリア人である姑の言葉なんだけど、要するに、
「塩1トン分、うれしいこともかなしいことも、いろいろといっしょに経験しなければ、人間同士は理解しつくせないもの」
という意味らしい。
この一文を読んだときのわたしの感想は、まさに目からウロコというか・・・
世の中理解できないヤツばっかりで当たり前だった!
と、気分がすごーいラクになりました。お互いさまだけど。
だって誰とも塩1トンのお付き合いなんてしてないもんね。
ていうか、逆に塩1トンも舐めてないのに、「良い友だち」がいてくれたらそれは奇跡。感謝するしかない。
半分あきらめ、半分感謝。そう思っていれば、人間関係で悩むことなんてほとんどないはずなのに、なぜかひとつまみの塩で、もうわかりあえるはずって思うから、いろいろ面倒で苦しくなっちゃうんでしょうね。
「塩1トンの読書」の序文の中では、須賀さんの姑や夫の言葉で、こんなものもあります。
こんなふうにも読めるし、あんなふうにも読めるから、ほんとうはどういう意味なのかわからない。だから本はむずかしいのよね
こんなふうにも読めるし、あんなふうにも読めるから、いい小説なんだよ
「本」「小説」を「人」に置き換えても、そのまま通じそうですね。
結局短い人生の中で、「塩1トン」を追求できるのは、時間的にも精神的にも、ほぼパートナーだけのような気がします。
塩1トンは一生の仕事だから、その途上で「なんか噛みあわないな」ってことがあっても当たり前。だからパートナーとの関係も、短期的な視点で悩む必要は、本当はないんです。
そしてこの「塩1トンの読書」序文はこう締めくくられています。
その姑も、そして夫も、じっくりいっしょに1トンの塩を舐めるひまもなく、はやばやと逝ってしまった。
パートナーとじっくりいっしょに塩1トンを舐められるというのは、ほんとうはとても幸せなことなんだと、忘れずに過ごしていきたいです。