前の記事で、「四万十川流域にメガソーラーができるかも(それにより災害の危険性が高まり、景観が悪くなることが問題)」という件、現在(2019・9・29)でも進行中です。まだ、結論は出ていません。
この話が市民に公開されてから3週間くらい。
その間はオットもわたしも、
住民説明会に参加したり、
議会を傍聴したり、
反対署名を集めたり、
メガソーラー容認派・反対派の人と話をしたり、
と、いろいろとこの件では巻き込まれていました。
(なんといっても家の目の前にできるもので)
しかしこのたった3週間で、わたしはなんとなく人間不信に陥っています。
なんせ、メガソーラー建設の背景にせよ、そこにまつわる人間にせよ、諸説がありすぎ!!
企業との癒着があるとかないとか
裏事情があるとかないとか
あの人はいい人だとか悪い人だとか
Aさんが真実を言ってるなら、Bさんが嘘つきになり、でもCさんはAさんが嘘つきだという・・・みたいな。
さっぱりわかりません。
東京ではあまり感じなかったこのストレス。
なぜなら、東京はそもそも人間関係が希薄なので、信じる/信じないという感情も、あまり深く湧いたりしないのです。
通りすがりの人に「この人は信じられる」「信じられない」という感情をイチイチ持ちませんよね。
ところが田舎では、市内の多くの人が、名前とセリフ、役柄を持った重要な登場人物として、わたしたちの人生に関わっています。
単純にスルーできない。
移住当初は知り合いもなく、あまり感じなかったこの感情。
つまり人間不信になるのは、ある意味ではわたしたちが本当にここに根付きはじめていて、深い人間関係ができてきている証拠なのかも。(前向きに言えば)
そのことに、怖さと、嬉しさと、面倒くささと、ありがたさと、なんだか非常に複雑な感情を感じています。
もしかすると、もっと重要なことは「この人に騙されるならば、あきらめがつく」と言えるほどの人に出会えるかどうかとも思うようにもなりました。
東京では人間関係が希薄でも生きられるように、たいていのことを「システムかお金」で解決できるようにもなっています。
一方、田舎では、問題の解決策はほぼ「人情か権力」。
都会と田舎、人間関係のありかたで、より人間性が如実に出やすく、ごまかしが効かないのは田舎のほう。
知らなくてもよかった、人間のずるさや弱さが露呈します。また自分もそれも露呈します。
色んな意味で怖い。
特に今回のメガソーラーのようなドでかい案件では、多くの人の人間性がむき出しになりました。そうならない人は、何もしてない人です。
田舎の人間関係が面倒くさい、と言われることの根底は、こういうことだと理解しました。
この面倒くささを忌避して都会に戻る人が多いのも当然だし、それもいいと思います。
ここを面白いと思えるかどうか、なんですね。