読書

理想の老い?「アーミッシュの老いと終焉」を読んで考えたこと

こんにちは、ななみです。

先日、こんな本を購入しました。

オットもわたしもアラフィフなので、「老い」の入り口って感じです。

子どももない自分たちは、どんな風に老いを迎え、対処していくのか、いまひとつ想像がつきません。

そんなわけで「老い本」(?)はわりと好きで、よく見ます。
五木寛之さんとか、寂聴さんとか・・・

ななみ
ななみ
今を生きんか

そんな感じですし、もともとアーミッシュに関心があったので、この本は飛びつくように買ってしまいました。

CONTENTS

アーミッシュとは

ところで、アーミッシュとはなにか。

現在アメリカやカナダにいくつか点在する、宗教集団によるコミュニティです。
宗教集団、というと、ちょっと怪しい印象を受けるかもしれませんが、アーミッシュはむしろ歴史の長い、出自の明確な集団です。

18世紀にローマ・カトリック教会に反抗して立ち上がった一派が、ヨーロッパでひどい宗教弾圧(迫害)を受け、それを逃れるように新天地アメリカに信仰の自由を求めて移住してきました。それがアーミッシュの祖先です。

宗教を中心にしたコミュニティは世界中に数えきれないほどあるかと思いますが、アーミッシュはその独特のライフスタイルで、特別に注目をされています。
彼らのこんなスタイルの写真を見たことのある人もいるのではないでしょうか。


わたし(たち夫婦)はこのアーミッシュに関心があって、2年前に、アメリカにあるアーミッシュのコミュニティを実際に訪ねてみたりもしました。

アメリカ・ドライブ <コラム> アーミッシュ村に滞在して想うこと

アーミッシュの暮らし

   

今日の本題はアーミッシュの「暮らし」そのものではないのですが、これも少しだけ説明します。

アーミッシュは、電気を使わない、自動車を運転しない、質素な服装、高等教育を受けない、コミュニティの中の助け合いで生きる、など、その(一般の現代人から見れば)”特異”ともいえる生活風習で知られています。


つまり、基本的に18世紀のままの暮らしをしているのです。

彼らは現代社会とは一線を画して生きているのに、皮肉なことに、アーミッシュコミュニティは観光地として非常に人気があります。

こんな事態にもなっているようです。

アーミッシュ人気が高まるにつれて、非アーミッシュの実業家や開発業者が土地を買い上げて、「アーミッシュブランド」を売り物にしたホテルやレストラン、ショップなどを相次いで開業させていった。その結果、地価がさらに上昇し、アーミッシュの農地取得は遠のき、課税額と物価がさらに上昇するという皮肉な結果になったのである。

わたしたちのような外国人はもちろんのこと、現代の最先端を生きる、大都市のアメリカ人も、このアナログなアーミッシュのコミュニティに「何か」を求め、こぞって訪ねてくる。

ある意味、不思議というか、おかしみのある現象ですね。

じゃあ、「アーミッシュコミュニティなんて、ただの観光地じゃん!」と思う方もいるかもしれません。

わたしの正直な印象では、確かに観光地化されている一面はあるけれど、だからといって「全部作り物」という感じはしませんでした。

やっぱり、そこに「リアルなアーミッシュ」の息遣いは確実に感じられたからです。
基本的には彼らは農業や手仕事、畜産などの自給自足で生活を成り立たせています。


ただ、現代社会で生きる上で必要な現金(たとえば税金の支払い)を稼ぐために、観光などの手段を取り入れ、折り合いをつけているにすぎません。

アーミッシュの若いお嬢さん
アーミッシュメイドの食品はほぼオーガニック。ものすごく美味しい

それはさておき、そもそも、世界の多くのクリスチャンは、こういうアーミッシュみたいな暮らしはしていないですよね。

なぜアーミッシュだけが、文明や進化に背を向けているのか。

それは、先に述べたような「迫害」された歴史が彼らのバックボーンにあるからです。

彼らには、

人の欲望には際限がない。
知識、権力、富は、人を傲慢にする。

という思想があります。

そして、それが彼らの祖先が経験したような、人間が人間を迫害するような社会を生むのだと。

知識や権力や富よりもずっと大切にすべきは、神への愛と、隣人への愛。
このアーミッシュの教えが受け継がれて現代に至っています。

アーミッシュの高齢者

さて、前置きが長くなりました。

そんな、アーミッシュコミュニティでは、高齢者は非常に大切にされています。

それは、単純に”年長者を敬いましょう、いたわりましょう”という一般的なモラルからくるものではありません。

200年前のままの暮らしを守ることが、コミュニティの平和、ひいては人間としての幸せにつながると考えるアーミッシュ的な思想の中では、高齢者の役割は非常に大きい。

アーミッシュは高齢者を敬い、尊重する。(中略)高齢者は、洞察力や慎重さ、落ち着きを身につけているし、机上の知識ではなく経験に裏打ちされた知識と知恵を持っている。このことを知っているからこそ、彼らは高齢者に意見やアドバイスを求め、その話に耳を傾けるのである。

つまり、アーミッシュにおける高齢者は、実用的な意味で「なくてはならない」ということがわかります。いたわるどころか、教わる存在なのです。

アーミッシュは8年間の教育をアーミッシュスクールで受けると、それ以上の高等教育は受けません。その観点からいっても、周りの大人から教わることがそのまま教育になっているわけですから、高齢者の重要性が高い理由もよくわかります。

アーミッシュの夫婦は平均7人くらいの子供を持つそうですが、末っ子が結婚すると、労働の第一線からは退き、母屋の横にある小さな家に夫婦は越します。

そして、農地を貸したりするロイヤリティなどのいくらかの収入を得たりして暮らしていきます。

しかし、これはリタイアとは違って、引き続き高齢者はコミュニティの中で、高齢者にしかできない役割を果たしていくわけです。

「居場所」と「役割」の重要性

こうした高齢者について、この本では「皆がそれぞれの場所で、自分の役割を果たしている」という書き方をしています。
高齢者の居場所と役割が、常にアーミッシュにはあると。

ふと、日本でも田舎暮らしだと、アーミッシュに近いものがあるなと感じました。

例えば、我が家の隣に住むおじいさんは、81歳。

ですがいまだに地域では「兄さん、兄さん」と呼ばれ、真っ先に意見を求められる人です。
また、家庭においても、「畑のことはじいちゃんに聞け」という空気になっているのがよくわかります。

ちなみに我が家の水道が壊れた時も、相談したのはこのおじいさん。

さすがに81歳に作業させるつもりはなかったですが

ななみ
ななみ
(誰か職人さんを紹介してくれるかも)

といったくらいのつもりでした。

するとおじいさんは

「知り合いで水道詳しいの、呼ぶから待っちょけ」

と、期待通りの展開。

ななみ
ななみ
(さすがに顔が広いな~!)

と一安心。

で、来た職人さんを見ると、どうも・・・この様子は・・・

失礼ながらご年齢をうかがうと

「83歳じゃけど、ファファファ(笑)」

ななみ
ななみ
まさかのさらに年上来た!!)

そしてその職人さんは、全くもって素晴らしい手さばきでわたしたちの悩みを解決してくれました。

「今は決まった仕事はしとらんけど、呼ばれたらちょいちょい手伝うて、小遣い稼ぎしちょうけん ファファファ」

と、83歳は笑っていました。

アーミッシュの高齢者の話を読んだときに、このおじいさんを思い出しました。

人間にとって最後に大切になるのは、あのおじいさんみたいに、「居場所」と「役割」があるかどうかなんだ。

多くの人は、60代くらいまでは「夫(妻)であり、父(母)であり、息子(娘)であり、誰かの上司(部下)であり、趣味のクラブのメンバーであり、PTAの役員であり、etc」など、いくつもの役割を持っていて、大忙しです。

しかし、気づいたら、会社は定年になり、子供は巣立ち、親は亡くなり、・・・と役割は少しずつ減っていきます。同時に、居場所もなくなってくる。

しかし、家庭とコミュニティに圧倒的な重きを置くアーミッシュでは、そういうことは起こりません。

平均すると子供が7人、孫も数十人いて、若者の精神的支柱、あるいは活きた生活の知恵を授ける存在として、いつまでも「役割」と「居場所」が確保されている。

田舎のお年寄りも、そんな生き方をしている人が多い。

でも、いくら田舎でも、漫然と過ごしているだけではやっぱりだめ。

若いときから、「周囲のために自分ができること」を淡々と続けていた人が、最後まで居場所と役割を与えられるのではないか。

たぶん、子供や孫の数だけでは決められない。そんな気がしました。

アーミッシュの「終焉」

この本の中では、アーミッシュの死生観についてこのように記述されています。

アーミッシュは、死を特別なことと捉えず、生の延長線上にあるものとして、淡々と受け止める。

この世に生を受けた以上、老いと病は必然であり、死はその先にあるに過ぎないと考えているのである。

神はすべてを与え、神はすべてを奪う。

シンプルな考えです。

見る、歩く、考える、話す、etc 人間が当たり前だと思っている能力はすべて神から与えられたもの。
やがて、歳をとるにつれて、やっぱり神が少しずつ奪っていく。

見えなくなり、歩きづらくなり、忘れっぽくなり、というのはすべて当たり前の現象で、ただ、「あるがまま」に受け入れる。それがアーミッシュ的考え方です。

もちろん、誰でも老化には抗いたいけれど、そんな考え方もあると知ると、少し気がラクかも。

もちろんアーミッシュの死生観はそんな単純ではなく、より深い宗教観や、自給自足で”食用としての家畜の命を頂く”暮らしをしていることが、もっと複雑な影響を与えていることでしょう。

すべてはわかりません。
ただ、この本を通じアーミッシュの考え方の一端に触れたことは、「老い」について、わたしにある一つの確信を与えてくれました。

居場所と役割があれば、老いをあるがまま受け入れることも可能かもしれない。

まとめ

いつものように働き、いつものように眠ったら、たまたま次の朝、起きない日が人生に1日だけあった。

「アーミッシュの老いと終焉」からは、そんな「生と死がなめらかにつながった」形が浮かんできます。

一方で、今の日本では、老いといえば、「老後」の話。
老後といえば「2000万が必要」。
さもなくば、「老後破産」。

生と死の間に、全く違う時間として流れるがごとくの”老後”という魔物があり、さぞ恐ろしいもののように言われています。

さて「老後」ってなんでしょう?
アーミッシュの人生には、老後という言葉にふさわしい時間が、あまり見当たらないのです。

老後の時間がないことが、最高の老後なのかもしれない。
最終的な結論です。