諺(ことわざ)って真理を突いてるなぁ、と思うことが増えた。
歳のせいかしら。
「捨てる神あれば拾う神あり」があって何とか生きられているし、田舎で何かを進めるにはともかく「急がば回れ」。味わい深い。
しかし、たまに信じたがばかりにドハマりしてしまう、取扱注意の諺もあるのが事実。
石の上にも三年、などもわりと危険な匂いがするけど、移住者にとってトップクラスに要注意なのは何と言っても
「郷に入っては郷に従え」
でしょう。
この諺、束縛されたり、悩まされたりする移住者はけっこういる。
わたしもそうでした。
移住先で出会う、地元の人の中には、強い口調で
「この村ではこうでなきゃいかん!!」
とか
「こういうの、この地域では困るんですけど!!!」
みたいに、自分の都合や意見をかなり強く言ってくる人がいます。
もちろん正しいこともあるけれど、時に「へ?」って思う内容もある。
でも一方で、「まぁ田舎ってそんなもんなのかなぁ、わたしが間違ってんのかなぁ」という気もしたりして、とにかくわかりにくい。
周囲に聞こうにも、それがまた、回りまわって本人に伝わると別のトラブルにもなりかねないので慎重にならざるを得ないんですよね。結局、ひとりでモンモンとしちゃう。
と、こんなとき、拠りどころにするのが例の「郷に入れば郷に従え」。
そうか、言うこと聞いたほうがいいのかも、と。
でも、人間って本心から納得していないのに従うと、やっぱり無理が出るんですよね。
1度くらいならまだしも、繰り返しになるとキャパオーバーです。
「もう、都会に帰ろ」となるのはそんなときだと思う。
しかしこれ、誰が悪いという話でもないのが難しいところ。
地元の人たちにも、その人たちなりの歴史も倫理もあっての発言。
しかし一方移住者だって、波風立てたくないけど、自分に正直に暮らしたい。
じゃあやっぱり、受け止める側が冷静に、「正しいアドバイス」なのか「個人的意見の押しつけ」なのか、仕分けするしかない。
そんなことを考えていると、「郷に入っては郷に従え」って何なの?誰が言い出したの?という根源的な疑問が湧いてきます。
調べたところ、これは中国語の諺の「入郷随俗」から来ているらしい。
「随」は追随の随なので、まぁ、従うという意味ですね。
入郷随俗。
つまり、その土地が育んできた風俗や習慣に従おう、ということ。
あれ?
じゃ、忠実に日本語訳するなら「郷に入ればその地域の風俗に従え」じゃないの?
と言っても、こんな冗長な諺じゃカッコ悪いんで語感良くしたら「郷&郷」っていう超スーパースターみたいな感じになっちゃったんでしょうが、その結果、
「郷に入れば郷に(住んでいる人の言うことに)従え」
っていう曲解されたムードが生まれていないでしょうか。
少なくとも、わたしはそんな気になっていました。
よく考えれば、日本の25倍の広さ、10倍の人口を持つ中国。
「近所のジイさんには逆らうなよ」なんてスケールの小さい諺、作らないのでは・・・
「入郷随俗」の字面を改めてじーっと眺めていたら、
地域の特性や気候、そこから生まれた習慣や風俗を尊重して、その土地が持つ大きな自然の流れに逆らわず、ゆったり身をゆだねようよ。それがきっと幸せにつながるよ。
そういうことを言っている気がしてきたんです。
決して、「入郷随”人”」ではない。
もとより、人間同士の対話。
相手が正しいことを言っていると思えば、きちんと聴く。おかしいと思ったら、やわらかく、でもきっぱりスルーする。
この当たり前ルールに、移住も地元もないような気がします。
まぁ、圧が強くて色々言う人は、田舎だろうが都会だろうが存在します。
ただ、都会の場合は、相手が「会社の上司」とか「取引先」とか「〇〇ちゃんのママ」とか、お互いに会社の看板や肩書き、立場などのワンクッションがたいていありますよね。
しかし田舎の場合は、もうただの「ヨシオ(仮名)VSナナミ」みたいにいきなり個人同士がぶつかる感がすごい。
これ、慣れないと地味にシンドイこと。
なので、もうなんでもハイハイって聞いておこう面倒くせぇし!って考える人の気持ちもわかるし、それも1つの処世術(あるいは護身術)なのかもしれない。
でもそれではやっぱり、外部から新しい人間がそこに来た意味がなくなると思うんですよね。少なくとも、薄れてしまう。
ケンカする必要はないのですが、価値観の交換による摩擦を恐れていたら、お互いに何にも変わらない。
長い目で見れば、すり傷を承知で多少「やり合う」ほうが、全体の底上げになるのではないかと思います。
冒頭の話に戻りますが、「諺って真理を突いているな」と思うようになったのは、もしかしたら加齢のせいではなく、昔ながらの人間本来の暮らしに近い生活をしている、田舎に来たせいなのかもしれません。